非指示文化財
照会数 580
永嘉台
- 所在地
- 釜山広域市東区子城路99近隣
詳細
永嘉台は、今日の東区凡一洞城南小学校西側京釜線鉄路側にあった。
1905年、京釜線開通で撤去され、その痕跡を見つけることができず、旧跡に石碑だけが建っている。
ここは日本に派遣された通信使行と関連が深い名所で、1614年(光海君6)、慶尚道巡察使権盼が釜山鎮城近くの海岸が浅く狭いため、新たに船着場を作ったが、この時に海から汲み上げた泥がたまって小さな丘ができ、ここに木を植えて亭子を作った。
1617年、回答兼刷還使だった呉允謙が永嘉台から日本に出発した後、通信使行は絶えずここで海神祭を行い日本に行った。
1624年(仁祖2)、宣慰使李敏求が日本使節を接待するために釜山に派遣されたが、この亭子を見て権盼の故郷、安東の昔の名前である永嘉を取って「永嘉台」と名付けた。
通信使行は、朝鮮後期に韓日関係を照らす代表的な善隣使節として通信使という名前で日本に派遣されたのは、1636年から1811年まで合計9回で、日本国王の要請で、幕府がある江戸(現東京)に派遣された使節だった。
通信使行は8ヵ月間の長い旅で、荒い大韓海峡を渡って行くのは非常に大変なことだった。通信使行は出発前に永嘉台で安全航海と無事帰還を祈る海神祭を行った。
永嘉台は景色が優れ、詩人墨客はもちろん、ここを通り過ぎた通信使行が多くの詩を残した。
永嘉台は1905年京釜線の開通で両分され、日帝時代に日本の商人及川民次郎の別荘、陵風荘に移されたが、その後、都市化の過程でその姿を見ることができなくなった。2000年釜山広域市の歴史遺跡地標石設置計画に基づいて、東区佐川洞地下鉄駅付近の道路公園に「釜山浦倭館·永嘉台址」の標石を立て、2003年東区庁から子城台近くに永嘉台亭子を復元して歴史教育及び観光資源として活用している。
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